257号 人生あれこれ #17 大量生産の生産技術確立へ

257号 人生あれこれ #17 大量生産の生産技術確立へ

世界に冠たる日本の自動車産業の夜明けは、『岡山在住の技術者、山羽虎夫』が1904年初の純国産自動車である「山羽式蒸気自動車」を制作・試運転したのが始まりである。


戦後の日本の自動車メーカーは、先を争って欧米の先進技術の導入を積極的に進めた。東日本重工業(現三菱自動車)はアメリカのカイザー・フレイザー社(1950年)、日産自動車はイギリスのオースチン車(1952年)、日野自動車はルノー車(1953年)、いすゞ自動車はイギリスのルーツ社のヒルマンミンクス車(1953年)など乗用車の受託生産を始めた。純国産技術を維持したのはトヨタ自動車だけだった。


当時の自動車産業に携わる者は、地元の経営者から「世界と伍して、海のものとも山のもとも分からない儲けの少ない仕事をするなんて愚か者だと言われた」と聞かされている。しかしながら当社は、そう評された自動車産業の成長を信じ、三菱自動車の協力工場の工業団地に進出したのである。


 

 

自動車産業で生き残るためには、工場の管理レベルの向上を図る一方で、生産技術力の強化が必要であった。当時、シルバーストーン曲線(量産効果)で示されたように、「コストは一定の量を超す生産に達すると急激に下がる」と言われ、大量生産の生産技術の確立が急がれた。


量産の為の簡易の専用治具や専用機の設計・製作技術、更にはトランスファーなどの大量生産専用設備などの技術開発力である。当社では自動バフ研磨機、ピンボード式めっき設備や全自動の油圧バンパー成形機などの大型専用機を自社開発して技術力の蓄積に努めた。


自社開発したバンパー油圧成形機(油圧機構は帝人製機㈱)は、バンパーの両端を1工程で一体成形できる画期的な全自動の油圧成形機で、実験機の立会いに来られた三菱自動車の工作部長は「常識では考えられないことをやってのけた」と称賛して下さった。この成形機のバンパーが、次期新車に採用されることになり、超特急で本機の製作をしなければならなくなった。製作には高橋三千夫部長を長とする技術部の小林徳三・後藤宏・桑野強各氏等が工場の一室に泊まり込んで設計に専念し、機械・金型・油圧機構が一体となった全自動の油圧バンパー成形機を完成させたのである。この機械は、油圧機構でコントロールしながら下の金型上のフープ材をストレッチしながら皺を出さないように上の金型でしごいて曲げる加工限界に挑戦した成形機であった。従来なら十数工程バンパーのプレス加工を1工程で成形した。


この成形機を自社開発した当社の技術力の高さは、一躍自動車業界に名を馳せたのである。しかし、生産までの期間が短く、成形の機を玉成する時間がなく量産に突入したために、バンパー素材の伸び率のバラつきも相俟って、8割が割れて不良品となり、成形機の油圧コントロールの調整が喫緊の課題となった。当時、生産管理課長をしていた私は客先との納期の戦いに苦しみ、一か月近くは毎朝4時過ぎには出社して夜勤生産に携わった社員をねぎらって朝食を差し入れ、その日の生産出来高を見て一喜一憂したしたものだ。当然ながら客先もその生産状況を危惧し大変心配された。ここからは、「うっちゃりのオーエム」「土壇場のオーエム」と言われた当社の底力を見事に発揮し、客先に大きな迷惑をかけることもなく生産を正常化することが出来た。納期が綱渡りの期間は数か月にも亘り、当時の私は心身ともに疲労困憊した。


当社のバンパー成形機の開発の成功は私には大変誇らしく、忘れることの出来ない大切な思い出でもある。


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