一木会の島巡りが、次回佐渡島と決まった時、私はとても嬉しかった。というのも、それまで2回しか訪れたことのない、母の故郷新潟に行けるからだった。スケジュール表を見ると佐渡行きの前の週に東京出張が入っていた。それを利用して東京経由で前日に新潟に入り先祖の墓参りをして、翌日島巡りの一行に合流しようと決めた。
母貞は、父親を早くに亡くし、3兄妹の真ん中で長女として母親一人に育てられた。そして、母が新潟の女学校を卒業した頃、岡山県工業学校の恩師に招かれて新潟の人絹工業(株)に勤務していた父溥に見初められ岡山に嫁ぐことになった。およそ90年前、新潟から岡山まで、乗り換えの時間を含めたら2日掛かったという。母娘ともに相当な覚悟だったと思う。新婚生活を始めた新潟に、岡山の祖母が訪ねた時、新潟の祖母と2人で佐渡を巡る旅をして、お互いの心を通わせ、意気投合したと言う。新潟の祖母は、岡山の祖母に「佐渡の旅で気心が知れて良かった。とても安心した。岡山が近くに感じられる。今度は私が岡山に付いて行きたい」と言ったそうだ。その後、風呂から上がるなり脳内出血で倒れ息を引き取った。
新潟の祖父は東京帝国大学を卒業して、地元で7代続く医院を継いで医者をしており、祖母も手伝い、祖父の死後は助産婦として3人の子供を育てたと言う話は相当後になって聞いた。90年前に、私の2人の祖母が互いに理解し合ったその場所、"佐渡"に行くのだと思うとしみじみと感慨深いものがあった。東京での仕事終え、新潟に着くと、まず、祖父母の墓参りをした。その後、伯父の家に寄せて貰い大歓待を受けた。従妹たちと八海山を飲みながら、新潟の海の幸・山の幸をご馳走になった。とても美味しかった。
翌日、一木会のメンバーと合流しホバークラフトで佐渡の両津港に着いた。佐渡の旅の始まりである。佐渡島は、金山と流刑の島として知っていた。だが、私が佐渡を訪れて一番感動したのは佐渡の文化だった、流された貴族や知識人によってもたらされた貴族文化、金山発展に伴い奉行や役人が江戸から持ち込んだ武家文化や町人文化、それらに、北前船が全国各地の港から持ち込んだ物資と共に運び込まれた無数の文化が触れ合って佐渡独特の文化を育んだそうだ。中でも"能"が印象に残った。佐渡には江戸時代200を超える能舞台があり、現在も32余りの能舞台が残っている。人口当たりの能舞台数は、江戸時代も現在も日本一と聞いた。
1998年、長男圭太郎が、縁浅からぬ新潟越路生まれの祥子と結婚した。謡いや仕舞を嗜まれる祥子の父上西脇一氏が、新潟からお能の師匠ご一行を結婚披露宴に招いて下さり、急ごしらえの舞台で、仕舞を舞って下さった。お囃子のリズムに乗せて朗々と響き渡る謡い、格調の高い仕舞いは圧巻で、新潟の伝統文化の荘厳さに、一同魅了されたものだ。
圭太郎夫婦も、先日銀婚式を迎えたというから、この佐渡の旅からは30年も過ぎたことになる。あれが3度目の新潟だった私は、その後十数回新潟へ行った。新潟が近くなったと思うこの頃である。