事業の多角化は、住宅関連商品からビル関連、物流関連、福祉介護商品へ広がり我が社は急成長を遂げることができました。これは商品企画そして製品開発、顧客開拓、生産体制の全社の機能が上手くマッチングしたからこそと思っております。また、他社との差別化を堅持し、大企業に真似をされないために、工業所有権の取得にも力を注ぎ、出願件数548件、登録件数195件となりました。多角化の初商品の雨戸の生産は、オーエム工業(株)の岡山工場(現在のオーエム産業本社)のメッキ工場の跡地で細々と始めました。その頃は、景気が大変過熱しており深刻な人手不足で、自動車部品の納期も綱渡りをしており、三菱自工からは自動車以外の生産を白い目で見られておりましたし、雨戸も増産に次ぐ増産となりました。そのようなこともあり、生産拠点として川上町の廃校を借り移転する決断をしました。校舎は、雨戸の組み立てラインに最適な細長い建物でしたし、運動場にはプレス加工工場も建設でき、昭和48年2月に生産を開始する事が出来ました。当時、国の貸出総量規制が行われていたので、銀行からの資金調達が大変難しく、廃校を借りて生産能力を増強することは、設備投資を抑えることができ、大変助かりました。それでも新製品の設備投資資金についても取引銀行からの貸出が受けられず、銀行の紹介で地元の信用金庫に足を運びお願いに上がり調達せざるを得ない始末でした。
川上町の作業者は、農家の方々で真面目でよく働く人達でした。しかし、全員が会社勤めの経験はなく、農繁期には客先の納期の心配もよそに休暇を取りますので会社は納期の確保に大変苦労をしました。その当時、農作業の省力機械として稲刈りのバインダー、続いて田植え機が出始めたばかりでした。これに私が着目して、会社で農機具を購入し、作業者に輪番で貸与することで出勤率を一定に保つことができないかと考えました。結果は思惑通りとなり大変喜んだ次第です。私は、1年間毎朝自宅を5時半ごろ、冬は凍結の心配があるので4時半に出て川上工場へ通勤しました。また、地元の長老や一家言ある方々から色々と心配してご助言を頂くのですが、それらに対応するのも私の大きな仕事でした。
この頃は、系列化の時代で新顧客開拓ができても同一場所での生産は難しい時代で、昭和52年6月新しい客先の生産を英田町の廃校で行うことにしました。その後、貸出総量規制が打ち切られたので、昭和59年10月、茨城県桂村に
敷地9600㎡に日産建設の設計施工で2900㎡の自前の新工場を建設しました。当社にとっては初めての自前工場で感慨無量でした。売上高の増加と共に、昭和63年には岡山の著名な設計事務所に依頼して英田町に敷地24500㎡に3900㎡の新工場を建設。
平成4年には岡山市赤浜に敷地11800㎡に5500㎡の開発センター兼本社工場を建設しました。私が手掛けた工場建設は、廃校の運動場に建設した建物まで含めて、グループ会社(オーエム機器、オーエム産業、オーエム工業)で15工場にもなり、振り返ると「驚きの一言」でありましたが懐かしい思い出でもあります。日本の高度成長期の中で我が社の多角化もその波に乗って成長して行きました。しかし、高度成長が終わり国内は失われた20年を迎えると、残念ながら我が社もまたその波に飲み込まれていきました。しかし、自社商品の収益率が高かったお蔭で財務体質を強化することができており、売上高の減少する中でも、毎期利益を確保することができました。これは社員の皆さんの努力のお蔭と感謝をしている次第であります。