岡山メッキ工業㈱は水島機械金属工業団地(現ウインウバレイ)に進出し、事業内容がメッキ加工業から自動車部品加工業へと大きく様変わりしていったため、昭和46年1月1日に社名を「オーエム工業(株)」に変更した。
自動車部品事業は加工業から開発型の部品製造業を目指した。さらに会社を安定させることを目指して事業の多角化を推進し、目途の立った新規事業は自立と事業拡大のために分離独立させる「分社経営」をとった。その第一弾が昭和45年香川県に設立しためっき会社「オーエム産業㈱(現岡山市)」、次に昭和48年設立の住宅関連事業会社「オーエム機器㈱」、そして昭和49年に自動車小物部品製造会社「高梁オーエム㈱(現アステア矢掛)」、昭和51年住宅部材販売会社「㈱オーエム建装(昭和58年廃業)」と矢継ぎ早に進めた。
事業の柱は、当社のルーツであるメッキ事業、オーエムグループを飛躍的に発展させた自動車部品事業、そして当時うさぎ小屋と揶揄された住宅事情を変えていくための快適な部材を提供していく「住宅関連商品事業」とした。
第二次世界大戦後、壊滅的打撃を受けた都市部は、復員者や昭和のベビーブーム、農村から都市部への人口流入などで人口が大幅に増えたにもかかわらず、その住宅事情はたいへん惨めなものだった。経済復興は、石炭や鉄鋼、電力、化学が中心で、建築資材にまで復興が及ぶのは朝鮮特需で息を吹き返してからであった。高度経済成長が始まった昭和30年代、住宅需要に火が着いた。昭和30年代半ば、建設省を中心に高品質規格住宅を工場で大量生産することを目指したプレハブ工法の検討が始まった。民間独自のプレハブ住宅の取り組みは大和ハウス工業のパイプハウスに端を発し、倉庫、仮設住宅から仮設校舎そして本格的なプレハブ住宅へと進化していった。
伸長する巨大住宅市場を見て、昭和30年代から40年代には大和ハウス、松下電工(後のパナホーム)、ミサワホームなどが参入、後半になると化学、電気、製鉄、機械、材木業、大手ゼネコンなど住宅関連以外の業種からも参入が始まった。しかし昭和48年のオイルショックの発生でプレハブ住宅産業に参入した多くの企業が撤退した。
また昭和40年前半の大型台風の影響で、プレハブ住宅の被害クレームが多発し、プレハブ住宅の品質向上と品質保証が強く求められるようになった。このまま堅調に拡大していくと思われたプレハブ住宅産業だったが、そのシェアは昭和50年代半ばには15%に達すると、その後は15~20%前後と横ばいで推移するにとどまった。この要因は、工場生産することで期待されたコストパフォーマンスが達成されなかったからだと言われている。
このような需要構造や品質保証体制・コストパフォーマンスなどに多くの課題を抱えている時期の住宅産業に、当社は参入したのである。顧客が当社の住宅関連商品に関心を示したのは、安定している鋼材価格を主要材料とした製品でありスチール製品の品質精度の良さであったと思われる。
「鉄は国家なり」と言われた日本の鋼材価格は、変動の大きい木材価格と異なり長年にわたり価格が安定していた。また、温度や湿度によって経年変化する木材部材に対し、スチール部材の安定した品質精度で優位に立つことができた。住宅関連の第一号商品は、昭和46年日本アルミニウム工業㈱に納入した「鋼製さねつぎ雨戸」である。当初は月産500~600枚の生産であったが瞬く間に数千枚を生産するようになった。昭和48年に生産スペースと作業者不足から生産拠点をオーエム工業岡山工場(現オーエム産業本社)から川上町(現高梁市川上町)にあった廃小学校へ移転した。ここを本社とするオーエム機器㈱の誕生である。
雨戸事業は、鋼製庇、通風雨戸、ガラリ雨戸、ルーバー雨戸など、瞬く間にバリエーションも生産数も増えていき、生産に追われる日々となった。納入先も、住友商事の框ドアをはじめ日軽金グループ(理研アルミ、ホクセイアルミ)、日本板ガラス、大同鋼板へ販路を広げた。鋼製雨戸メーカーとしての地位を確実なものにしながら、雨戸以外のアルミ面格子などで積水ハウスやクボタハウスなどのプレハブメーカーへ販路を開拓していった。