新規事業の内容を策定し、具体的展開を推進して来たが、それは決して生易しいものではなかった。成功に導くことが出来たのは、多くの人に支えられ助けられたからであった。まさに「人との縁」である。これは、父母の陰徳のお蔭であると心から感謝している。
当時、溥社長は仕事の軸足を自動車部品事業と所属していた工業団地組合や三菱自動車工業協力会、さらに全国鍍金工業組合に置いていた。従って新規の事業については、私が全面的に責任を持って進めた。
昭和47年の田中内閣の列島改造論で国内どこもかしこも好景気となったがオイルショックでそれもダウン。その後、金融政策は一転して「選別融資規制の強化、設備資金の融資抑制、大口融資規制」などの通達が立て続けに出され、中小企業の資金調達は困難を極めた。
取引先金融機関から新規事業への融資は受けられず、県北の信用金庫を紹介して貰い何とか必要資金を調達することができた。当時の融資規制の厳しさは今では想像も出来ない。事業多角化が拡大していく中、金融機関の支店長に何度も頭を下げ融資をお願いしたことが今も思い出される。
金利も今の低金利時代と隔世の感があり、当時は7~9%と高金利時代で、企業にとっては大変な重荷となっていた。新規事業では借入金をできるだけ圧縮したいが、本体の自動車事業の経営状況も厳しく資金を回せる余裕はなく、無理やりにでも設備投資を圧縮するしかなかった。
このような資金面に加え、高度成長下で労働力不足が深刻化しており、過疎地の川上町や英田町の廃校を借上げ生産拠点として活用した。
新規事業を分社経営にしたのは、自主・独立精神で個々の企業が成長をすることを大いに期待したからである。また三菱自動車工業から「自動車事業の収益悪化と労働力不足による納期遅延の要因は新規事業にあるのではないか」などの勘繰りの指摘を受けたことも一因であった。
新規事業の商品企画については、わが社の体質の長所・短所を棚卸し、コンサルタントの知恵を借り新規進出分野を決定した。商品開発にあたっては、これまで培ったロール加工やドアサッシ・バンバーの曲げ技術などの生産技術力と生産合理化の専用機やめっきの生産設備の開発力となどの総合技術力を使って、試作品を完成させた。
しかし、何よりも大きな課題は「販売」であった。オートカッターのような専用機は、これまで付き合いのあった専門商社にお願いし販売して貰ったが、問題は住宅関連商品の販売であった。これは、建材開口部を扱うアルミサッシメーカーにいかに売り込むかに係っていた。知名度も実績もない企業が、窓口担当者と接触することは至って困難で、わが社の技術や開発部門の大学時代の友人の伝手(つて)を辿ったり、県の商工部の支援を仰いだり、商社や取引先などから紹介して貰うなど、ありとあらゆる人脈の伝手を活用し厚顔を顧みずお願いした。その甲斐あって某サッシメーカーの開発部とコネクションが出来て雨戸より精度を向上させたスチール製雨戸を納入することが出来るようになった。
プレハブメーカーでも住宅部材に精度の高いスチール製が着目されるようになり、わが社は木製部材からスチール部材への転換を商品企画テーマに据えた。その後も販売ルートの開拓は、従来からの伝手を探る繰り返しであった。
今思うに、その厚かましは並大抵ではなく、多くの方々に大変ご迷惑もかけながらも助けて貰った。これは新規事業の成功を願う一途の熱い思いと若さとバイタリティがあったからこそ達成できたことと今しみじみ振り返っている。