終戦当初はGHQから乗用車の生産を禁止されていた日本であったが、1949年にそれも解除され、海外車両のノックダウン生産から本格的乗用車生産が開始された。日野自動車はフランスのルノー社、日産自動車はイギリスのオースチン社、いすゞ自動車はイギリスのヒルマン社、新三菱重工業は米国のウィルス車と提携しノックダウン生産を行い、欧米の最新の自動車生産技術をキャッチアップしたのである。その中で、トヨタ自動車だけが純国産乗用車の独自路線を貫いた。従って当時の金持の多くが乗っている乗用車はほとんど外車で高嶺の花であった。私の掛かり付けの小児科医の愛車も最新の国産ノックダウンのヒルマン車で、その洗練されたスタイルは素晴らしく、幼い私は「高嶺の花の自動車」を羨ましく眺めていた。
戦後復興期のモータリゼーションは、自転車に補助エンジンを付けただけの町工場で生産された原動機付自転車に始まり、次第に大手の中日本重工(現三菱重工)のシイルバーピジョン、富士重工のラビットなどのスクターに移り、そして荷役運搬の足として軽三輪トラックの登場を経て軽四輪自動車へと発展して行ったのである。
1949年日本の軽四輪自動車は、ボディーの大きさと排気量を制限した規格を定め、大衆の手の届く税制面などの優遇措置を施された。軽四輪車はそれ以来今日まで日本独自の発展を遂げ、全自動車の販売台数の約40%を占める大きな存在となった。
通産省の国民車構想が、日本が高度成長に入った1950年代半ばに発表され、その三年後からスバル360、三菱500、マツダ360などが相次いで発売され軽四輪自動車の開発競争が本格化しモータリゼーションが急速に発展して行ったのである。
三菱の自動車事業は、1950年新三菱重工で米ウィリス車のノックダウンを開始、1953年に自動車部を設置し、1960年名古屋製作所で三菱500の生産を開始した。
水島製作所では1947年オート三輪「みずしま」号、1959年中型四輪トラック「ジュピター」、軽三輪「レオ」、1961年軽四輪「三菱360バン・ピックアップ」、1962年軽四輪「三菱ミニカ」、1963年乗用車「コルト1000」、1965年乗用車ファーストバックスタイル「コルト800」、1966年軽四輪キャブオーバー「ミニキャブ」、東京自動車製作所から移管されたキャンターの生産、1968年1tトラック「デリカ」の生産を行う。
新車の発売の度に当社の納品用車両が、角型ハンドルのオート三輪みずしま号から、丸型ハンドルの三輪車そして四輪トラックジュピターへと変化し、その度に自動車らしくなったと誇らしく喜んだものだ。社長車も自転車・スクターから小型乗用車ダットサンそしてセドリック、デボネアとなった。
国内の乗用車の生産台数は、1965年には僅696千台が1968年2055千台、1970年には3178千台と急成長し、世界自動車生産ランキングでも日本は1960年7位から1969年には第2位となった。この9年間の世界の自動車総生産台数伸びは1.9倍であったが、日本は11倍(年平均伸び率36.9%)にもなる著しい急伸長であった。
このように日本の自動車産業の急成長で各社のシェアー競争が激化する中、三菱自動車の新車ラッシュと共に当社も自動車部品事業に益々傾斜して行ったのである。
しかし一方では、交通事故死者数が1960年代後半には最悪となり、マスコミで「交通戦争」と大きく報道され批判された。また自動車の排ガスによる大気汚染が大きな社会問題となり、アメリカでは大気汚染法より厳しいマスキー法が制定され、当時各社は技術確立の出来てない状況下で緊急排ガス対策を余儀なくされた。開発初期の排ガス対策車は、馬力が大幅に低下し岡山国際ホテルへの急な登攀道を登れなくてぶりを付けてやっと登れたことを今でも鮮明に覚えている。
1970年のドルショック後の日本経済は、円の変動相場制への移行にも拘らず貿易収支の黒字は依然恒常化し、欧米からの「経済の自由化要求」が日増しに強くなり、国内産業は自由化の黒船到来の不安に慄いていた。