人には、生まれてくる時や場所を自分で選択する自由はない。私も自らの意志で世界大戦最中の真珠湾攻撃の日を選んで日本国民として生まれてきたわけではなく、天から与えられた運命によって父溥と母貞の長男としてこの世に生を授かった。両親は、私にこの人生を与えてくれたのである。
けなげなる子供は「愛」で育つと言われるが、それでだけでは不十分で「敬」が必要であると先哲は説いている。子供は「可愛がられたい、愛されたい」という本能的欲求と同時に、「敬」という対象を持ちその対象から自分が「認められたい、励まされたい」という強い欲求も持っている。その「愛と敬」が相まって初めて人格が形成されていくという。多くの人と同様に、私も「愛」の対象を「優しい母」に求め、「敬」の対象を「敬慕される強い父」に求めた。
私の父溥は儒教思想の教育者「彦左衛門」を父に、優しい「さと」を母に持つ七人兄弟の末っ子であった。末っ子故に特に母の大きな愛を受けて育ち、要領の良い活発な子であったという。
祖父の厳格な教育を受けた父は、私にも大変厳しく、怖い存在であった。小学2年生の時、家でいたずらをして叱られ、縁側に立たされて平手で頬っぺたを叩かれ1メートル下の庭に吹っ飛んだこともある。外面の良い父であったが、家では専制君主で、私の従兄弟達からも怖く煙たい存在であった。そんな父も、私が成人した頃から、私の人格を認めてくれ、次第に恐れが薄れ人生の先輩として、父として誇らしく尊敬する存在となった。
父の会社に入社してからの私は、会社では親子の立場を自ら断ち切り、社長と社員という関係のけじめを守り言葉づかいや敬称も全て変えた。私は、「経営の師」である父溥社長の生き方を学ぶために会社では一心に仕えた。勿論、人間である以上短所も多々あり、それは私にとって反面教師となった。しかし無から有を成した創業者の度胸と度量の大きさは、いつになっても私などは足元にも及ぶことはないと思う。どんなに厳しく苦しい経営環境にあっても弱音ひとつ吐かず、ひたすら経営改革に専念していた小柄な父の大きな背中を、私は頼もしく見てきたものだ。
ある時私は、そんな父溥社長が上程した書類にも一切の疑義を唱えず承認し、役員会でも私の意見を黙って聞いてくれることに気づいた。それは私が社長になる2~3年前だっただろうか? その時、私は自らの責任の重さを痛感し「いよいよバトンタッチを覚悟」と身の引き締まる思いであった。この時のことは私の脳裏に深く刻まれ忘れることはできない。その後社長になってから今日まで、ずっと同じように黙って私の経営を見守ってくれている。今の自分の立場を顧みて父溥の度量の大きさに今更ながら感嘆し、自省するこの頃である。
また、ある時私が学生時代の仲間とよく飲みに行っていたスナックに一人で行って自分の目で確かめてみてくれる優しい父でもあった。
私にとって父溥は人生の目標であり師であった。その師に認められ褒められようとずっと今日まで努力して頑張ってきたように思える。
企業戦士だった父は、今、齢99を迎え、思いの詰まった我が家で孫や曾孫に囲まれ、姪の英子と私の妻直子に介護され穏やかな日々を過ごしている。
私は毎朝、愛おしさと感謝の念を込めて、お洒落だった父の顔に電気カミソリを当てる。我が人生にゆったりと父と向き合う時を与えてもらったことに感謝し、一日も長くこの日課が続くことを願っている。
※残念ながら父 溥はこの原稿を脱稿した直後、2014年6月1日に帰らぬ人となりました。父が生前に賜りましたご厚誼に深謝申し上げます。