255号 人生あれこれ #15 健全な労働組合の誕生②

当社が野田工場へ移転した昭和35年、モータリゼーションの波は三菱重工水島製作所の自動車特需を生みだし、協力工場は企業の近代化が急務となって来た。その最中、当社に誕生した岡山一般合同労組は、経営者をはじめ社員を労務問題で翻弄し、企業の近代化を遠く遅らせてしまった。基幹部品の受注には後れを取り、協力工場の地位は下落すし、その挽回には多年の年月と労力を費やすこととなった。「経営者としては慙愧に堪えなかった」と後々に社長は述懐していた。


昭和40年三菱重工水島製作所の協力工場は集団化し、総社水島機械金属工業団地(略称団地)に進出し、同年設立された団地の三菱自動車協力工場労働組合(略称菱労)に我社の労働組合も加入した。団地企業の労働諸条件(賃金、賞与、退職金など)は団地の労使による中央労使協議会で決定され統一的運用となった。団地進出の企業の中には当時、労働組合を持っていない企業も多くあり、この協議会のお陰で各社の労働条件が格段に向上して行ったのである。


 

 

しかし一方で、中央労使協議会で全てが決められるととなり、単組も企業の労務能力も共にポテンシャルは低下していった。そのような状況下でも当社の労組は過去の苦い経験から常に反省し確固たる信念を保ち続けたのである。


昭和40年代後半は高度経済成長の真っ只中で、団地組合企業の賃金は20%以上もベースアップされ、昭和49年には30%超えるまでになった。ところが昭和49年のオイルショックによる不況は50年代に入っても続き、物価上昇と人件費高騰が企業の収益を大きく圧迫した。昭和50年の春のベースアップでは、労側に提供したアップ率が一桁の伸びにとどまり不服とした菱労は三菱自動車協力工場経営者協議会(略称菱経協)との締結を無視して突然に岡山県地労委に提訴したため菱経協が反駁し紛糾した。当時の菱労は6000千人を超える組合員を抱えており専従役員で運営する規模となっており、少々労働貴族的様相を呈していた。地労委の再協議斡旋も不調に終り、菱労は5分間のストライキを実施、翌年もベースアップに絡みスト権を確立するなど闘争を先鋭化してきた。この菱労のスト権を振りかざした交渉姿勢に当社の組合がいち早く反発し菱労を脱退した。これが引き金となり菱労との中央労使会議は廃止されることとなった。今回も健全な思想をもつ当社の労組の影響は大きかった。


一夜漬けから始めた労働問題の勉強も、目の前の切実な問題も一つ一つ勉強しながら解決していくうちに、知らず知らずのうちに社長を労働問題のエキスパートとしていったのである。そのような経緯もあってか、昭和41年から岡山地方最低賃金審議会委員を24年間、昭和61年から岡山地方労働委員会委員を6年間務めた。この時代はまだまだ労使紛争が結構多く発生しており県労働委員として調停には苦労をしたようである。


私も父の影響があったのか、突然平成16年から岡山県労働委員の任命を受け岡山県公安委員になるまでの3年間を務めた。私の頃はバブルがはじけ長い不況からに突入してからなので労使の団体紛争は激減し、その形態は個人の労働紛争へと質的変化をきたしており、父の県労働委員の時代に聞いた苦労話とは異なっていた。


しかし、このように当社の労働問題の歴史がいろいろな意味で経営者や社員に与えた影響に感慨ひとしおである。


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