朝鮮特需以降も、企業の近代化・合理化の為の積極的設備投資は続いた。
昭和31年「もはや戦後ではない」と言われ、太陽族やロックンロールブームは戦後の世相を突き抜け、日本は確実に新しい時代を迎えた。
弊社の桑田町工場移転の大型投資も誠に時宜を得て、7年間で売上高を7倍、社員も100人増加の130数人にまで急膨張した。繊維や自動車部品などの受注増加で早くも桑田工場は狭隘となり、更なるスケールメリットを追求し、昭和35年末岡山市野田へ拡張移転をした。野田工場建設は桑田工場と同様、旧工場を解体し組上げる突貫工事のエコ移転であった。この工事の最中(さなか)の冬休み、私は工場夜警を面白半分で引受け、愛犬のシェパードの「アスター」をお伴にオート三輪運転台の中で寒さと泥棒怖さに震えながら夜を明かしたこともあった。
おりしも景気は、なべ底から岩戸景気に転じ、池田内閣は10年間で国民所得倍増政策を大胆に打ち出したが、左翼系労働運動が台頭し大企業では合理化反対の労働争議が多く起っていた。特に不況の深刻な石炭業界では、希望退職を募った三井炭鉱が歴史的に大規模な合理化反対の長期闘争に突入した。
我が社も御他聞に洩れず、会社の将来の発展の夢に期待を膨らませた新工場操業から半年後、突如として「岡山一般合同労組(総評系組合)」の支部」が誕生することになる。技術屋の社長は経理知識のなさから嘗て税務査察が行われた時と同様、労働組合問題に疎かっただけに驚愕と狼狽を隠せなかったようだ。父の口から「オルグが、オルグが・・・」と言う言葉を何度も聞いた。他社の組合から来た筋金入りの総評系オルグが全面的に会社との交渉に当たり、当社の組合員にはほとんど自主性はなかった。当時の総評は戦闘的で、闘争は地域ぐるみ・家族ぐるみで行われ、政治闘争とも結合していた。「企業の近代化・合理化は人員整理に繋がる」との思想で絶対反対、企業倒産さえも意に介さないために多くの大企業や中小企業が経営危機を余儀なくされた。
社長は、付焼刃的ではあるが労働問題を懸命に勉強し、経営者協会の温かい指導を受けながら、時に失言もあったが比較的冷静に労組に対応していた。一年余が経過し、総評系労組の慢性的サボタージュ、残業拒否、生産性向上反対、そして法外な労働条件改定要求などの極左主義に嫌気をさした「心ある社員」が立ち上がり、労働総同盟の指導の下で「第二労働組合」を結成した。第一組合員と第二組合員は、社員を取り囲んで執拗・陰湿に奪い合った。昼も夜もあちこちで社員がグループ別に集会をし、嘗ての家族的な和やかさは失われた。社員同士は疑心暗鬼となり殺伐とした異様な雰囲気であった。一つの企業内に二つの労働組合が存在した期間が二カ年も続き、耐えられず去って行く社員も出た。最終的には健全な考え方を持った第二労働組合が多くの社員の支持・賛同を得て主導権を取り、総評系の第一労働組合は次第に組合員が離散し解散を余儀なくされた。
この修羅場と化した不幸な経験は、その後の我社に素晴らしい労使関係を育んだのである。健全な緊張感に満ちた労使関係は、経営者が交代しても脈々と受け継がれた。労組は決して会社に迎合せず、経営環境を理解しつつも、経営努力の限界にまで迫る厳しい要求交渉を行い、妥結は経営側と労側のお互いの限界でなされた。労働運動のあり方に信念を持っている我が社の労働組合は、社長にとっては大変に辛く厳しかったが、経営者の力強いお目付け役であった。この我が社の労働組合誕生の歴史は、決して忘れることの出来ない苦い試練であったが、後の人生にとっては大変貴重な経験だったと思っている。