253号 人生あれこれ #13 桑田工場へのエコ移転

253号 人生あれこれ #13 桑田工場へのエコ移転

戦後の復旧期の当社のメッキ仕事は、未だ民需製品の国内生産体制が整ってなかったために、大半が「自転車のハンドルやリム、ミシンの部品、外科用のメス、紡織機のロール」などの再生品のメッキ加工であった。戦後間もない暗い時代に、再生メッキで光り輝く自転車は、ステイタスであり裕福とお洒落を誇示したものだ。


復旧から復興が進むにつれ、顧客は再生品に加え紡績・織物・縫製加工会社、農機具メーカー、発動機メーカー、耐火煉瓦会社、自動車メーカーなどへと拡大していくことになる。また一時期繁栄を極めたのがパチンコの玉のメッキであった。国民の娯楽への関心が高まり、パチンコが大衆の娯楽として定着し、県下に数百軒のパチンコ店があった。各店によって大きさの異なる玉をメッキの色で識別していたため、仕事量が急激に増加し会社の中には常時パチンコの玉が入った木箱が、所狭しと置かれていた。


戦後の復旧期から復興期そして高度成長期へと経済規模が拡大移行していく過程で、当社も6,7年毎に次々と工場の拡張移転を繰り返し、事業規模の拡大を図ってきた。


 

 

建設中の桑田工場.jpg工場移転は、盆と正月と長期休暇が一緒に来るようなもので、子供心に「血湧き、胸逸(はや)り躍る」思いであった。学校の勉強も放っぽり出し、移転の為に身の廻り品を整理したり、工場建屋や設備の解体を興味深くまた物珍しく眺めたり、時には運搬に付き添って新工場用地へ出向いて行った。新工場の建築や設備設置が日一日と出来上がっていく姿を一人前に監督しているつもりで見ているのが私には嬉しくて楽しくてたまらなかった。


岡山の空襲で焼失した下石井の工場から、戦後昭和21年に網の浜の仮工場、昭和22年手作りの大供工場(NO8掲載)、その6年後の昭和28年7月に桑田工場、そして昭和35年12月には野田工場へと移転、更に昭和40年には自動車部品生産は総社工場へ全面移転することになる。


父の友人「杉本豊之助氏」の斡旋に寄って網の浜の仮工場に続いて取得したこの桑田工場は、敷地面積380坪(旧工場の3倍)で、大供工場から北西500メートルに位置していた。この移転では、資材や資金不足からだけでなく父の生家の山の木材で造られた旧木造工場建屋は、大事に躯体別・部材別に解体され、再び組み上げて新工場として使用されたのであった。大物躯体は、深夜から早朝の交通量の少ない時間帯に人手で担いで雨の中を運搬する大変な作業となった。これはまさに現代版のエコ循環型の工場移転であった。客先の仕事の関係で移築操業を急ぐあまりに、建築作業は深夜にまで及び近所から騒音苦情でお叱りを受けるなど大変であった。この工場丸ごと移転は、社長の陣頭指揮のもと社員全員で行い、工場建屋解体と建築の助っ人として多いに力を発揮したのは大工の棟梁の佐藤次朗さん(後日当社の板金部門を担当)と日雇いの土方の頭(かしら)であった。そのテキパキと進める働きぶりは子供心に目を見張るものがあった。母は毎日一升瓶とスルメなどのツマミを用意してこの突貫工事の労をねぎらった。


土方(どかた)の頭は大男ながら優しい人であったが、酔いが廻ってくると誰彼となく捕まえて絡み・喧嘩を始める、それをなだめすかすのも棟梁の佐藤さんの役目であった。酔っ払って絡み、大声で喚く彼が、子供の私には「怖くて怖くて」、佐藤さんの後ろに常に隠れて興味本位で覗き見していた。


私の生活は、幼少時から会社と共にあったという自負がある。


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