この度、経営者である父と共に生きた亡き母の思い出を語ることに、身内であるが故のおこがましさとためらいを感じながらも筆をとることにしたのは、わが社を語る上で、陰で支えた母の存在の大きさを避けては通れないと思ったからである。母「貞」は、新潟で七代続いた漢方医若槻家に、四人兄弟の三番目に長女として生を受けた。幼くして父を失ったので母子家庭で育った。祖母は東大の助産婦科を出て同窓生だった祖父と結婚し、祖父の医院の手助けをしていたが、祖父の亡き後、助産婦を続けながら四人の子供を養った。ただ一人の女の子だった母は幼い頃から家事を手伝いながら兄弟の面倒もみていた。この母子家庭で身に付けた生活の知恵や培われた母の性格が後に父の良き協力者として会社の仕事や人間関係に活かされた。
母を一言でいえば「利他心専一の心の持ち主」で、まさに「私心なき慈愛に満ちた『誠』の徳を持った人」であった。父方の親族や社員、友人、知人、取引先の人々に対する母の接し方は「微塵の私心もなく、自分の事として相手が困惑するほどまで物心両面において尽くし切る」のである。今思うと恥ずかしいことであるが私は、他人に対して「そこまでするの」「やりすぎではないの」と思ったことも度々あった。母は自分自身や実家の身内には質素倹約とサービス精神を厳しく強要する人で、私に対してもよく「もったいない」「罰(ばち)が当たる」という言葉を発して戒めた。母は、「己を律し人に尽くす」ことが「人の倫」であるという信念の持ち主であった。
多くの方々から「あなたのお母さんのような立派な人は見たことがない」「本当に仏様のような人だ」「お母様には本当にお世話になった」など心の底から繰り返し賛辞を頂いたものだ。
父はかっこ良く生きるタイプの人であるので、面倒なことは全て母に押し付けた。会社が資金難になると、母は恥を忍んで近所の質屋に着物を質入れしたり、親族の土地の担保差し入れや保証人の依頼をしたり、更には知人や友人に頭を下げて借金を無心して廻ったこともあった。
工場に自宅があった頃、母は、メッキ浴槽の温度を上げる為に朝5時から父と一緒に薪を焚き、寮生の毎度の食事や社員の残業食・夜食など毎日数十食を深夜に及んで作った。新年会や忘年会は自宅でお酒と食べ物を用意しドンチャン騒ぎをさせるし、正月も自宅に社員を招待するなどその気遣いは365日で並大抵ではなかった。そのような母であったので社員の皆さんに「母」のように慕われた。会社へ来る集配の人や清掃員の人たちにはタバコや駄菓子などを配りその労をねぎらった。
そんな母に、オーエム工業(株)創業30周年記念式典の祝辞で、三菱自動水島製作所笹尾鮮三朗所長様から「菊作り 菊見る時は 陰の人」という句を戴いた。
このような母を妻に持った父や会社はたくさんの恩恵を受けたことと思う。
誰しも親を選んでこの世に生を受けたのではなく、偉大なる天によって生を与えられているとしたら、私はこの母から命を授かったことに、そして一人っ子で虚弱体質だった私を心身ともに健全に育ててくれたことに心から感謝し、偉大なる天に衷心よりお礼を申し上げたい。今尚、五年前に亡くなった母の陰徳の大きな恩恵に預かっており、今更ながら尊敬の念と共に母を想うこの頃である。