戦後日本は、欧米の近代科学技術の導入の加速によって驚異的な復興をとげ、世界に冠たる経済大国となった。その過程で日本人はひたすら利便性と快適性を追求し、いろいろな便利なものを生み出した。しかし一方で、これまで大切に育み、受け継いできた様々な伝統や慣習を置き去りにした。
そもそも日本は、稲作農耕を主たる生業とし、生きとし生けるものや自然との共存を図ってきた。そして自然の営みに畏怖を抱き、自然と共に生きる自分たちの生活の安寧を願い神仏に「祈りや感謝」の色々な行事を行ってきた。それらを私たちは、自然や人生の節目ふしめに、親や祖父母から教わりながら引き継いできた。しかし年を重ねて行くうちに面倒くさくなったり、あるいは社会の近代化と共に非合理性や古臭さを感じたりで世間では行われなくなったり、簡素化されることが多くなった。
しかし日常の生活に忙殺されて、普段はこのような伝統行事とは無縁であっても、正月には鏡餅を供え神仏に1年の幸福を祈る。また、厄年には神社に出向いてお祓いを受けたり、大安仏滅の歴註に従って結婚式や葬式の日取りを決めたりするなど昔のしきたりや縁起に気遣っている部分も残っている。
私の子供の頃の歳時記を振り返ると、「お正月、七草粥、消防初出式、とんど焼き、節分、ひな祭り、五月の菖蒲、ホタル狩り、花火、七夕、盂蘭盆、秋祭り、クリスマス、除夜の鐘突き、稲荷参り」など思い出深い。
一人っ子の私にとっては、夏休み冬休みに父の里(岡山市新庄上)へ泊りがけで行って、従兄弟たちと一緒に田んぼや野原を駆け巡って遊び、季節毎の昔の風習に則って行われる行事を従兄弟たちと一緒に準備して、手伝うことが嬉しくてうれしくてたまらなかった。
ゴミの廃棄規制や住宅事情、核家族化などの環境変化などから、これまで続いてきた風習や伝統行事は様変わりした。「お正月(244号掲載)」、「七草粥」を食べるとその年一年、病気にならないと言われ、決して美味しいとは思われない七草とお餅の入った粥を母が作ってくれた。自分たちで餅つきしてお供えしていた少々カビの生えたお鏡餅を下して、手で割って雑煮や汁粉にして家族みんなで食べた「鏡開き」。正月に飾った門松やしめ飾りを神社の境内や河原などに持ち寄って燃やし、その煙に乗って新年に訪れた年神様が天上に帰って行くと言われた「とんど焼き」。書初めも一緒に燃やした。高く飛んでいくとお習字が上手になると言われた。鏡餅やお飾りのだいだいを焼いて食べた。旧暦の七月七日の七夕。裏山の竹林から枝のしっかり付いた長い大きな竹を選んで切り出し、6日には夜明け前に起きて、田圃の芋の葉に付いている「露」を集めて墨をすり、短冊に思い思いの願いを書き、自分達で作った「紙縒り(こより)」で竹に吊るす。飾りの輪繋ぎの紙も教わりながら自分たちで苦労しながら作った。出来上がった二本の七夕の竹は、庭の入口の左右に立て、その間には小さなテーブルを置き、その上に割り箸を突き刺して馬の形にしたスイカを備えた。そして、夜になると前の用水に笹竹を流した「七夕」の思い出である。夏のもう一つの行事は「お盆」である。お床の間の床の周囲に先祖のお位牌をまず並べ、渦巻き形状の線香を吊るし、その火を三日間絶やさないように見守った。線香の灰は蓮の葉を下に布いて受けた。そしてお供えものは、「ほうずき、なす、トマト、鞘に入った小豆、スイカやかんぴょう」など自分たちの畑で採れたものとシイタケ、そうめんなどの乾物、乾菓子なども供えた。花立には、なぜか「しきびとヤジロベ―に吊るしたほうずき」を活けていた。庭には、水棚を立ててその上に乾菓子を載せた。そして、毎日みんなで、肥松を門で焚いて、13日には先祖をお迎えをし、15日には送り火をした。そして作った笹船に送り団子(お萩)や乾菓子を入れて自宅前の川に流した
これらの行事には必ず「食べる」ことが付いており、お菓子などの美味しいものの少なかった時代の子供にとっては「大いなる楽しみ」であった。