大供工場での生活は昭和22年5月から昭和28年7月(小学校4年)までの6年間であった。敗戦直後の日本は「新円切り替え・預金封鎖」、更に「物価統制」が敷かれ、米や食料品、衣料品などが配給制となり国民は空腹とモノ不足に悩まされ、インフレと生活苦に喘いでいた。私たち子供らは破れたズボンのお尻や膝に継ぎ当てをして大事に着せられ、靴下などはほとんど履かず素足に運動靴だった。その頃の家庭の暖房はと言えば、炭か煉炭の火鉢しかなく、一酸化中毒にならないように、時折換気の為に窓を開けて震えながら過ごした。寝る時には、冷たい布団の足元に金属性の「湯たんぽ」か真っ赤に熾した炭団(たどんと振り仮名をつける)を入れた素焼きの「炬燵」を置いて貰った。それでも布団から出ている部分は冷たく、小さく丸まって眠ったものだった。
昼間には、寒さにも負けず青鼻を垂らしながら外で元気にチャンバラごっこなどして遊びまわった。冷たくて手の甲や足に指が「霜焼け」、赤くはれて痒くなり、ひどくなるとはじけて痛かった。時には、登校途中の道すがら宿毛(もみがら)や小枝のたき火で暖を取り、焼きイモを頬張った。
夏の夜は、扇風機もエアコンもないため自然の風に涼を求める外なく、戸を開け放したので家の中には蚊が不気味な音を立てて飛び廻っていた。そんな夜の必需品は蚊帳である。天井から床までの高さのある、部屋の形とほぼ同じ大きさの麻のメッシュのテントのような蚊帳を座敷の天井の四隅から吊るしてその中で寝た。それでも暑くて寝苦しく、眠りにつくまで母はやさしくうちわで煽いでくれた。「蚊帳を揺らして外の蚊を追い払ってからさっとめくって出入りするスリルとわくわく感が楽しかったな」と今も懐かしい。
当時の衛生状態はまだまだ悪く、蚤や虱、南京虫にも悩まされた。これらを退治・防疫するために進駐軍の持ってきたDDT(現在は環境汚染物質ため使用禁止)を薄い缶から頭や体、室内に散布した。20数年くらい前に牧畜の盛んなオーストラリアに入国する際、外国からの細菌の持ち込みを防止するために到着した飛行機の中でこのDDTが散布された。その時あの何とも言えないDDTの臭いを思い出した。
終戦直後の公共交通機関は「木炭バス」であった。大学病院へ通院のために大供のバス停で乗降していると運転手が降りて後部の燃料の木炭を投入して再び出発した。木炭バスは馬力がなく、乗客が多かったり、登坂に掛かるとノロノロ走行となり、煙が黒々と出て当時の蒸気機関車と同じであった。北朝鮮では今でもこの木炭自動車が現役で走っているという。
昭和22年、政府は鉄とエネルギー資源の中心である石炭の増産(傾斜生産方式)を重点的に進め、経済復興への足掛かりを築いた。更には昭和25年に始まった朝鮮戦争で、GHQの占領政策方針も大きく転換され、色々な産業が朝鮮特需で息を吹き返しモノ不足も次第に緩和された。
大供工場の周辺には、大本組の大供寮(現駐車場)や吹きガラス工場、自動車修理工場、質屋そして駄菓子屋、酒屋、うどん屋、ペンキ屋、薬屋、畳屋、下石井の公設市場などがあった。今日のスーパーなどの量販店はなく、みんな個人経営の商店や工場で、支払いは大福帳に付けて「付け払い」をしてくれた。生鮮食品の野菜や魚の包装は全て四半に切った非衛生的な新聞紙であった。
用水を挟んだ西隣の大本組の寮の人たちには大変可愛がってもらった。休日には窓越しに声をかけて貰い、寮の食堂にたびたび遊びに行かせて貰い、音楽の好きな寮生がトランペットやクラリネット、サックスを吹いて聞かせてくれた。後に私がウイングバレイの理事長をしていた時の西団地の造成を大本組が受注され、当時寮にいた人が専務さんでおられ昔話に花が咲いた。