私が結核性肋膜炎で一年間の入院を余儀なくされ、退院してからの我が家の食生活は、どのようにして私に滋養あるものを食べさせ体力をつけさせるかに重点を置いたものとなった。まだまだ食料難の時代で、栄養価の高い肉や鶏卵などの食物は高価で手に入りにくく母は大変苦労したようだ。一人っ子であっただけに母の思いは殊更強いものがあった。今のように医療も充実しておらず、治療薬も十分にはなく、勿論栄養剤やサプリメントなどない時代であったので、食事で栄養を採ることしか方法はなかった。
高原小児科で隣の部屋に入院していた「岡本マリちゃん」のお母さんと母は親しくなり、その縁でずっメンコと親戚のような付き合いをさせて頂いた。岡本さんのご主人は旧満鉄に勤めておられた引揚者で、後に弊社の総務部長として勤めて頂いた。この「おかめ」の前身を創られた人でもある。岡本夫人は大変料理上手で、中華料理を始め朝鮮漬など母は教わったようだ。栄養が付くからとよく食べさされたものに何種類もの野菜を長時間煮て濾した「野菜スープ」がある。このスープはおいしかったが余りにも毎日飲まされたので嫌になった。今も野菜スープは苦手である。「芙蓉蟹」や「揚げた鯉の餡かけ」「八宝菜」などもよく作ってくれた。今でもその味が忘れられなくて中華料理を食べる時には思い出して注文する。そして何よりの楽しみはお菓子代わりによく作ってくれたさつま芋を揚げて水飴を絡めた「大学芋」である。甘いものが少ない時代に子供にとっては最高のおやつであった。
当時の会社の寮には中学を出て入社してきた三人の少年がいて、その人達にも同じ食事を毎日振舞っていたので同じような感想を持っているのではないかと思う。
大供工場では私にとって大変恐ろしい出来事があった。それは夏のある深夜のこと、事務所の方がガタガタという音に目覚め、直観的に泥棒だと思い、父母を起こす声も出ず寝床で一人布団を頭からかぶって震えていた。翌朝、事務所から手提げ金庫が盗まれていたことがわかった。その後、空の金庫は会社の前の西川で泳いでいた時に川底から見つかった。当分の間、夜になると子供心にその恐怖心が蘇り怖かった。
また、ある日突然税務署の人が数人事務所と自宅に入ってきて、事務机や押入れ、タンスなどあらゆるところを調べ、赤紙を貼って帰って行った。これもまた子供時代の哀しく、恐ろしい体験である。純粋に技術屋の父は経理や税についての知識にも疎かったことで厳しい税務調査となったものと思う。その時の記憶から私はこれまで税に対してはクリーンを守ってきた。
大供工場での楽しい思い出も沢山ある。病気の再発もなく元気になった私は、近所に住んでいた子供たベーゴマちと毎日外で一緒に遊んだ。母にねだって買ってもらった野球選手の名前入りのベーゴマ遊び(バケツや樽にシートを張り、その上で廻してはじき出す遊び)やパッチン遊び(はたいて横転させる遊び)、ビー玉遊び(穴入れや当てる遊び)などの勝負で悔し涙を流したこともしばしばあった。また小柄で体力のない私であったが「缶けり」や「かくれんぼ」などの体力勝負の遊びにも興じた。夏になると西川に入り滑って転びながらザリガニやナマズやカニを採ったり、鮒などを釣った。また、堰がある深いところで流れに任せたり逆らったりして真っ黒になって泳いだ。今の西川では、衛生上のこともあり想像できないと思われるが私にとっては懐かしい「西川の川遊び」であった。