昭和22年3月、父の長年の夢であった自前の工場建設が岡山市大供で始まった。戦後の経済はまだまだ渾沌としており工場建設の物資も少ない折、当然ながらお金もない父は手造りの工場を建設することを覚悟したようだ。父の生家を建てた大工の棟梁の息子兄弟が「父のことなら」と進んで工場建築を引き受けてくれた。工場の材木は、実家の伯父(父の長兄)がシベリア抑留中だったにも拘らず、祖母(父の母)の英断で実家の山から伐り出すこととなった。伐られた材木は、実家の農耕用の牛を使って、狭い急勾配の山道を運び出された。大きな丸太が牛に引かれる途中、急に惰力で牛に向かって滑り落ちる様(さま)に肝を冷したことが今も瞼に鮮明に焼きついている。お陰で96坪の手造りの工場が昭和22年5月に立派に完成し、我々家族も事務所裏の六畳一間に台所が付いた部屋に住むことになった。当時のトイレは社員との兼用で独立した建物となっていた。外のトイレは冬には寒く、夜などは子供心に怖くて何ともいえない思い出が残っている。また風呂も独立してなくて、メッキラインの鉄の前処理煮沸槽が終業と共に風呂に様変わりし、社員や家族が順番に入浴した。これも懐かしい思い出である。
食料不足は深刻で、主食の米は配給制度で統制されていた時代で、家族の食料不足を補うために父は実家から野菜と一緒に米を三輪車の荷台の底深くにしまって持ち帰ったものだった。母もトマトなどの野菜を屋外の錆び取り用の大きな硫酸槽の脇に植え、夏の早朝には熟れたての大きなトマトをちぎって食べ、その肉厚の皮と酸味を利いた味が未だに忘れられない。品種改良された甘みの多い最近のトマトの味とは一線を画し誠にワイルドでおいしかった。
新工場の完成で父は意気揚々としていたが、子供の私は次第に食欲を無くしていったらしい。心配した母は私に食べることを強要した。私は食べ物を口に入れるのだが飲み込めず、両方の頬っぺたに一杯溜めて込んで膨らませて食べなかった。何となく異変を感じた母は、父の腸チフスを救ってくれた恩人の生長先生の診察を受けさせたところ「結核性肋膜炎である」と判明した。当時の結核は不治の病で日本人の死亡原因NO1の病気であった。建築を請け負ってくれた大工の棟梁が患っていた結核菌に感染したようだった。びっくりした母は、何としても子供を助けたい一身で先生に懇願し、高価で入手が非常に困難なリンゲルを手に入れてもらい、なんとか私は一命を取り留めることができた。しかし完治はせず再発した。今度は高原小児科にお世話になり一年近い入院を余儀なくされることとなり、その年の小学校入学を見送らざるを得なくなった。病院生活で大事にされていた私は、自由気ままに一人喜んではしゃいでいたが、母は悲しみ、当時流行っていた「鐘のなる丘」を病室のラジオで聞きながら涙していたという。この病気が「病弱な体質」として以後の私の人生に大きな影響を与えることとなったと思う。一年遅れて鹿田小学校に入学した後も、寒い冬季に、日当たりのいい席に順番に座れるように一週間毎に席替えするところ、私だけは特別待遇で常に日当たりのいい席を指定席にしてもらっていた。また毎月、胸のレントゲン撮影に岡山大学病院へ通った。レントゲン病棟は校舎のような木造づくりの細長い建物で、待合の廊下は薄暗く、歩くと板張りが軋み陰鬱な雰囲気であった。半日近く待たされる時間を母に本を読んでもらったり、近くで飼っているヤギと遊んだり、病理棟の気味悪い解剖用ホルマリン漬けを見たりして過ごした。