私が物心ついた頃から、いつも我が家には猫か犬、時には別の小動物がいた。父の動物好きは私にも脈々と受け継がれているようで、現在我が家には可愛い三匹の猫がいる。父は母と結婚すると同時に猫とシェパードを飼ったという。父のペット好きは、都合のいい時に可愛がるだけの勝手極まりないもので、面倒は全て母に任せっきりである。どうやらその身勝手なDNAも私は引き継いでいるようで妻には誠に申し訳なく思っている。
大供工場では柴犬「コロ」と猫の「チンサ」を飼った。我が家の猫は代々「チンサ」と名付けられた。初代が我が家で一番偉そうに「鎮座」していたかららしい。動物たちは楽しい思い出をたくさん作ってくれるが、悲しい思いも覚悟しなければならない。初代チンサは工場が拡張移転した折に一緒に連れて行ったが隙を見て脱走したまま二度と帰っては来なかった。新しい家の外にチンサの好きな餌を毎日置き、旧工場にも何度も探しに行ったが見つからなかった。二代目チンサは「猫は家に居つく」の言葉通り床下に身を隠し一人寂しく自然死を迎えた。幼い頃の悲しい思い出である。
柴犬コロが年老いて死んだ後、秋田犬「ハチ」を飼ったが、犬の大敵「フィラリア」に罹って手当ての甲斐もなくあっけなく死んでしまった。その時から我が家では、ペットが死んだら火葬に付して骨壺に入れ、寂しくないように庭の片隅に埋葬している。父は「ハチ」の死の悲しみも癒えぬ間に、また日本チャンピオンの孫の雌のシェパード「アスター」を飼った。成犬アスターは警察犬としての訓練を受けていて利口な犬だっただけに、新しい飼い主になかなか懐かず一週間も食事を口にしなかったが、次第に心を開いてくれた。一度懐いたら飼い主には絶対服従の可愛いアスターであった。このアスターが十二匹の子犬を産みびっくり仰天した。訓練士からは乳房が足りないから間引いて元気な子だけ育てるようにと言われたが、それは余りにも忍びなく全員育てることにした。父は翌日から北海道旅行に出かけ十日間も留守にした。哺乳瓶での授乳は大変で、最後の子犬の授乳が終わる頃には最初の子犬がもう腹を空かし、結局母は二十四時間面倒をみる羽目になったが、十二匹すべての子犬を健康に育てた。当時、牛乳は二ダース入りの箱で数箱購入していた。少し大きくなってからは舌平目を毎日トロ箱で買い、ミンチにして食べさせた。
このすさまじい光景を見ていた当時の女子事務員さんは、未だに舌ベリー(6歳)平目を見るだけで食欲がなくなるらしい。子犬が大きくなるにつれてやんちゃが始まる。庭の小さな池にはまって鯉と一緒にアップアップしながら泳いでいたり、靴や下駄を玩具にして遊び、飽きると庭の隅に穴を掘って埋め、新しい履物を台無しにした。しかし、父はペット達のいたずらには大変寛大であった。父が大事にしていた備前焼の花瓶を従弟が割った時、母と共謀して犬の仕業と言うことにし、怒られずに済んだということもあった。今では時効である。当時の家族は父母と私と従姉の英子、シェパード十三匹と屋内にスピッツの親子二匹の総勢四人と十五匹の大世帯であった。しばらくして子犬達も三匹を残して大好きなハムや肉を持たせて涙ながらに嫁入りさせた。その中の一匹は中国地区のチャンピオンになったが、我が家の犬たちは七、八歳ですべて死んでしまった。
その後、現在の家に住んでから、父はマルチーズの「ポー」を飼った。可愛く、お茶目な犬だったがある日失踪した。似顔絵を描いたポスターをあちこちに貼らせて貰い探しまわること一週間、近所に下宿していた学生さんから岡大の構内で見かけたという情報が入った。ドキドキしながら岡大の食堂に迎えに行くと、白い毛並みがすっかり黒く汚れてはいたが、元気なポーがそこに居た。感激のご対面だった。その「ポー」も十一歳で亡くなり、それ以来、犬を飼うことをやめた。それから数年後、小学生だった末娘が子猫を拾ってきた。その翌日、父がバス停でケガをして鳴いている黒猫を連れて帰り、二匹とも我が家の住人となった。現在、我が家には六歳のロシアンブルーと三歳のアメリカンショートヘアーと三代目の拾い猫がいる。三代目は平成三年生まれの十九歳、敬老の日に岡山市から表彰状を戴いた。九十五歳の父と共に我が家の長老である。