戦争によって日本の大都市や県庁所在のほとんどが米軍の爆撃を受け、町は焼け野原となり、主だった工場の大半は焦土と化した。終戦後のモノ不足とインフレは日を追うごとに深刻さを増し、町には闇市が堂々と軒を連らね、繁盛する時代となった。しかし多くの国民は食う食料も、働く職も、生産する設備・資材もなく、餓死者が多数でるなど悲惨で先行き不安の暗澹たる状況にあった。
アメリカ占領軍による戦後の改革は、軍国主義や国家主義を徹底的に排除する思想の下で社会・経済の民主化政策が次々と打ち出された。
一方で、日本経済は、衣料や消費財関連産業、更には復興の大きな基盤となる基礎資材のエネルギーの中心である石炭への傾斜生産方式などが昭和22年頃から本格的に始まり、将来へかすかな光が見え始めた。
日興電化の工場は空襲で焼け落ち、機械や設備も無残な残骸となったが、幸いなことに軍の指示で発電機やメッキ槽など主だった設備のスペアーは予め総社に疎開をさせたので、奇跡的に伝染病から回復した父は事業再開のチャンスを今か今かと窺っていたようである。そして、昭和21年11月岡山市網野浜の岡山瓦斯(株)の敷地内に建物を借りて「岡山電鍍工業所」を創業、翌年の昭和22年初めには、岡山市大供(103坪)に待望の土地を取得し、新工場を建設し事業発展の礎を築いた。
昭和21年2月、ハイパーインフレ阻止のために、「新円切り替えと預金封鎖」が行われ、国民の手持ちの現金と預金が大きく目減りした。そのような経済環境の中での事業再開は多くの苦難が伴ったと思われる。
父は、自分史の「行雲流水」の中で「自分の人生は大きな節目・節目に人情の厚い素晴らしい人との出会いがあり、その人たちの温かい救いの手に助けられ今日の事業がある、自分は本当に『幸せ者・果報者』であった」と述懐している。腸チフスにかかった時にも身内から金をかき集めて医療費を届けてくれた料理旅館の女将、事業再開のために借家工場を工面してくれた友人、念願の自前の工場用地を格安で譲渡してくれた友人のご母堂、そして新工場建設設備資金の不足を知って小切手で融通を申し出てくれた山手の商店主、その後も渾沌とした経済社会の中で経営の苦境の度に、折角起こした事業を大切にと「ある時払いの催促なし」で資金を融通してくれた駅前の文房具店の店主など、多くの人々に生涯忘れることのできないほどの温かい助けを頂いたと聞かされたし、幼かった私が目の当たりに見聞きした様々なことが感謝の気持ちとともに思い出される。
それだけに父は人との出会い、人情の機微や温かさなどの人間関係、神仏の情け、更には親の遺徳や陰徳を深く感じ、人間関係を殊の外大切にしていた。そして事あるごとに、私に「人間の倫(みち)としての人との付き合い」を説き、私が世話になった人に少しでも不義理な行いをすると「大雷」が落とされた。それほどに人との「縁」・「義理」・「人情」を大事にし、「誠実・勤勉」そして「感謝」を座右の銘とした父である。私にとってこの「教え」から一人の「人間」としてまた「経営者」として大きな影響を受けたと思っている。