昭和20年6月29日の深夜から始まったアメリカ軍B29による大空襲で、岡山市街地は一面火の海となり、街は焦土と化した。そして多くの尊い命が奪われた。母は、明け方、私を抱いて真っ赤に染まった東の空を恐ろしく不安な気持で見せたと聞かされた。我が家族は、父の実家(現在の岡山市新庄上)の田植えの手伝いに来ていてみんな無事であった。父は夜明けと共に危険をも顧みず取るものも取り敢えず、自警団の注意も無視して一目散に会社へ駆けつけたそうである。地獄絵図のような焼け野原の中を社員の安否と工場の被災確認のために夢中で走った。念願かなってやっと立ち上げた工場は、無残にも焼夷弾で全焼してしまっていた。幸いにも会社の社員と戦略物資生産強化のために香川県から働きに来ていた十数名女子挺身隊の人達はみんな無事で本当に安堵したと言っていた。不幸中の幸いであった。
借家は空襲からは免れたものの今後の戦局の激化を心配して、これを機会に父の実家に疎開する事となった。そして8月に終戦を迎えた。
父は、当面の生計を立てるために化学屋の知識を生かし醤油などの化学調味料を造りながら、めっき工場の再開を窺っていたようである。
ところが翌年の昭和21年春、弱っていた身体に心労が重なり、突然の高熱に見舞われた。回復の兆しがなく、病状にただならぬ気配を感じた母が、掛かりつけの医者から新たに生長診療所長(後に親子二代の命の恩人となる)に往診を依頼したところ、外来の法定伝染病「真性腸チフス」と診断された。既に動かすことさえ危険と判断され「自宅隔離」されることとなった。実家が医者であった母が、父の発病時から異常を感じ、食器、トイレなどを家人と区別するという機転を効かしていたことが幸いし、誰にも感染することはなかった。父は、母や親戚、更には多くの知人に物心両面にわたる支援を受け、当時、高価でしかも入手困難であったリンゲル注射の治療を受けることができた。
しかし、二週間も続いた高熱で脳漿を患い、記憶喪失の「ボケ状態」にまで至ったが、母の厚い看病で四十日間の長い病から奇跡的に蘇生したのである。本当に「運の強い人」である。長い高熱状態は、これまで体内に蓄積したあらゆる毒素を焼き尽くし、新しい体に再生・生れ変えたのだろう、その後は大病もせず健康で、この二月には「95歳」の長寿を迎えることができた。母が父の看病に携わっていた間、幼かった私は近くに住んでいた父の長姉綾子伯母に預けられていた。父の回復後に迎えに来てくれた母に人見知りし、抱かれてもしばらくの間は馴染めず泣き続けていたという。その伯母にも亡くなるまで、いつも「我が子」のようにして可愛がって貰った。父が末っ子だったこともあり、私は大勢の伯母や伯父に可愛がられて育ち本当に幸せ者である。
岡山大空襲メモ
昭和20年6月29日午前2時43分から午前4時7分にかけて米軍B-29およそ140機が、当時人口19万人の岡山市の陸軍兵舎・兵器庫(岡大キャンパス、県総合グラウンド)、岡山駅と操車場、煙草工場、製粉工場、岡山城そして水島の三菱航空機工場など15箇所を攻撃目標として、焼夷弾やく890t(約95000発)が投下。更に、7月24日四国沖の空母の艦載機12機による機関銃掃射で操車場や運行中の列車が攻撃を受け、岡山市の被害は羅災者数10.4000人、死傷者:2652人、羅災:7.69K㎡(市街地の73%)、羅災戸数:25,196戸となった。
写真
焼け野原となった街の向こうに、焼け残ったコンクリート建築の建物が廃墟のように並ぶ。左端が天満屋、中央が中国銀行。鉄筋の建物だけが外形のみをとどめている。右手前の敷地に、今は県立図書館が建っている。