父の夢叶い、郷里で事業独立することとなり、私たち家族は岡山へ帰った。生誕の地、神戸での生活はわずか1年足らずの短いものであった。
当然私の記憶にはないのだが、神戸での生活では、生まれる時から付きっ切りで見守ってくれた、近所に住んで貿易や広告業を営んでいた父の二番目の姉夫婦に殊の外可愛がられたらしい。毎日我が家へ私を借りに来ては、自分の孫のように近所に見せびらかして歩き廻っていたという。
岡山に帰ってからもこの柳井克己伯父は、当時はなかなか口に入らなかった薄ピンク色をした大判の超高級ボンレスハムや神戸の銘菓「きんつば」、また時には木製の乗れるトラックの玩具や幻灯機など高価な珍しいお土産を持って立ち寄ってくれた。伯父の来訪が楽しみであり心待ちにしていたものである。
父の独立に際しても、この伯父の「金と経営の面倒は見るから、独立してみないか」の一言から、かねてからの夢への挑戦が始まったと聞いている。
当時会社を設立するには国家権力を持つ軍部などのバックアップなしには到底不可能であり、会社設立の趣意書にも「陸海軍の精密兵器や各種部品のめっき業務の軍需委託工場となる」ことが明記されている。
伯父の才覚と顔の広さで工場閉鎖に追い込まれていた「岡山クローム」を買収し、昭和18年7月「日興電化工業株式会社」を設立、実務は父に任せて、伯父は神戸に在住したまま、「顔」で大企業や軍需関連会社などの得意先を次々と開拓して受注の拡大を図って行ったそうだ。
日興電化工業㈱設立時の登記簿には、時の岡山の財界人などが役員として名を連ねて下さった。
会社は岡山市下石井(現在の市役所筋に面した山陽新聞社南隣)であったが、家族は岡山市広瀬町(伊勢神社の真裏)の借家に住んでいた。この借家には従兄弟の難波勝(現オーエム機器相談役)もしばしば泊まりがけで遊びに来ていたらしい。